同窓会の紹介

役員名簿(平成30年度)
役職名 氏名 卒業期 科名 卒業年度
支部長 福井 裕恭 20期 土木 昭和43年度
副支部長 中村 益美 20期 土木 昭和43年度
副支部長 磯崎 太一 18期 機械 昭和41年度
副支部長 木村 義信 22期 土木 昭和45年度
副支部長 五戸 和明 26期 土木 昭和50年度
副支部長 外舘 弘道 26期 土木 昭和49年度
幹事長 松村 功 22期 土木 昭和45年度
副幹事長 野沢 敬貴 37期 機械 昭和60年度
副幹事長 佐々木 瑞穂 42期 化学 平成2年度
幹事 佐々木 伸介 56期 電機 平成16年度
幹事 西塚 修介 45期 土木 昭和45年度
幹事 小笠原 助三郎 22期 土木 昭和45年度
幹事 松尾 克博 26期 土木 昭和49年度
幹事 三浦 聡司 38期 土木 昭和61年度
会計監査 柴田 純一 20期 機械 昭和43年度
顧問 小笠原 亮 4期 土木 昭和27年度
顧問 大浦 一二 5期 土木 昭和28年度
顧問 赤石 清美 18期 化学 昭和41年度
顧問 柴田 覚 18期 土木 昭和41年度
相談役 内城 美名生 17期 機械 昭和40年度
相談役 高橋 三雄 21期 土木 昭和44年度

青森県立八戸工業高等学校同窓会東京支部会則

第1章 総則
第1条 本会は「青森県立八戸工業高等学校同窓会東京支部」と称する。
第2条 本会は会員相互の親睦を図り、母校後輩の発展誘致を図るをもって目的とする。
第3条 本会の事務局は支部長の指定したる場所に置く。
第4条 本会は次の会員をもって組織する。
 1.母校卒業生で関東地区に在住する者
 2.母校旧職員にして関東地区に在住する者は客員とする
 3.その他総会の承認を得たる者
第5条 本会の会合は次の通りとする。
 1.定期総会  本会の最高決議機関であり、原則として毎年1回6月中の日曜日に開催し、その他の必要事項を審議決定する。
 2.臨時総会  支部長が認めたる場合召集する。
 3.幹事会   総会に準じ必要に応じ開催し、緊急の審議決定をする。但し、総会の事後承認を得るものとする。
 4.事業所別部会 各事業所における部会を云い、末端連絡機関とする。
 5.小委員会  会員の発議にて必要と認められる場合、支部長はこれを結成出来る。但し、総会の事後承認を得るものとする。
第6条 会合における議長等はその都度幹事の中より選出する。

第2章 役員並びに任務
第7条 本会に次の役員をおく。
 1.支部長  1名本会を代表し会務を統率する。
 2.副支部長  4名以内支部長を補佐し、支部長事故ありたる時はこれを代行する。
 3.幹事長会計並びに会運営に必要な事務一切を行う。
 4.副幹事長幹事長を補佐し、幹事長事故ありたる時はこれを代行する。
 5.幹事  若干名本会運営、連絡、その他必要な事務を行う。
 6.事務所別部会連絡員各1名 総会、幹事会との緊密な連絡を保ち部会の必要な事務を行う。
 7.会計監査  2名以内会計事務の監査を行う。
 8.顧問  若干名統括的に会の発展に協力する。
 9.相談役  1名求められれば会の運営に助言する。

第3章 選挙
第8条 役員の選挙は次の通りとする。
 1.支部長は総会において会員中より選出する。
 2.副支部長は支部長が指名し、総会の承認を得るものとする。
 3.幹事は各卒業年毎に若千名とし、同年度卒業会員の互選に依って選出し総会の承認を得るものとする。
 4.幹事長は、幹事中より選出し、総会の承認を得るものとする。
 5.事業所別部会連絡員は部会会員の互選に依って選出し、総会の承認を得るものとする。
 6.会計監査は総会において前項役員を除く会員より選出する。
第9条 役員に欠員が生じた場合には支部長指名によりこれを補充する。
第10条 役員の任期は2ヶ年とし、再選は妨げない。但し、補充役員の任期は前役員の残余期間とする。

第4章 事業
第11条 本会は目的達成の為、次の事業を行う。
 1.本部同窓会及び母校との緊密なる連絡及び事業等に対する協力と後援
 2.会員の親睦に関する事業
 3.母校卒業生の就職、進学への協力及び後援
 4.会員の弔慰、表彰に関する事業
 5.会誌発行及び名簿の整理と管理
 6.その他本会の目的達成に必要な事業

第5章 会計
第12条 本会の経費は会費その他を以ってこれに当てる。
第13条 会費は本部補助金と総会費で充当する。
第14条 会計年度は4月1日に始まり、翌年3月31日迄とする。

第6章 補足
第15条 本会の会則は総会の決議に依らず改廃する事は出来ない。
第16条 会員は住所、職業、姓名等に変更を生じた場合は、会に連絡する。
第17条 母校卒業生で関東地区に在住している者は本部同窓会より自動的に当会会員になる。
第18条 本会則は平成25年6月23日より効力を発す。

昭和33年9月 7日 制定
昭和35年9月29日 改正
平成 4年5月31日 改正
平成11年6月27日 改正
平成14年6月30日 改正
平成20年6月15日 改正
平成24年6月24日 改正
平成25年6月23日 改正

同窓会の紹介」への13件のフィードバック

  1. 久慈祥介

    昭和34年度(第11期)工業化学科卒のものです。石油会社(現在はコスモ石油)に就職して昭和35年3月に横浜製油所に配属されました。翌36年5月に函館製油所に転勤と成り、暫く函館製油所に勤務しました。
    昭和53年9月からアフリカ・アルジェリア国の石油化学の工場へ出向し、56年7月に帰国しました。帰国後1年間位は函館製油所に勤務しましたが、後は東京本社へ4年間、四国の坂出製油所へ4年間勤務した後、横浜へ家族共々映り住んで、坂出以後は三菱商事へ≒9年間出向し、後に浜松町の東芝浜松町ビルのビル管理へも出向して、定年の60才を過ぎて69才迄勤めておりました。

    横浜に住む様になってから、最初の頃でしたか八工の同窓会に一度だけ出席しました。
    先ず驚いたのは女子生徒も入学していた事と男子生徒(勿論卒業生ですが)の何人かは耳にピアスを付けていた事です。此処では同級生には一人も遇いませんでした。時代は変わったなと思いました。
    何年かして、八工卒業生と名乗る人から、何処で調べたのか、職場(東芝浜松町ビル)へ頻繁に電話が掛かって来る様になりました。内情に詳しいので卒業生には間違いないと思いますが、話の内容が、不動産の購入とか事業の共同参画とか危ない話ばかりで、断り続けましたが、同窓会に出席したら又勧誘される危惧も有り、以後ずっと同窓会の案内が来ても断り続けてきました。

    八戸では久慈家一族の本家は長横町で小さな旅館(確か双葉荘と云う名前で昔、七尾家具店と云う大きな家具店が斜め向いの所に有りました。今は廃業して廃墟に近いです。)を営んでおりました。
    数年前に亡くなりましたが本家の叔父さんは大のウイスキー党で日本酒は一切飲まないと聞いておりましたので、或る時に訪ねた時の手土産に、サントリーのウイスキーを持って行ったのですが、叔父さん曰く、ウイスキーはニッカでなければ一切飲まない。と云って受け取りませんでした。今のテレビドラマ「マッサン」に良く出て来るスコットランドの本物のウイスキーは山崎のウイスキーでは駄目だ。と云って居るのを思い出します。
    又、本家からは芸能人も出ています。本家の次男だった人が仙台の旅館の娘の処へ養子に行き結婚して娘が生まれましたが、名前は「森 公美子」と云う歌手です。自分も最初は良く判らず、良くテレビのバラエティ番組に出て来るので職業はお笑いタレントだと思っておりましたが歴としたオペラ歌手と聞いてびっくりした事があります。
    本家の生前の叔母さんが本音を漏らしておりましたが、何年に1回かは八戸で森 公美子の講演会があるらしく、その度に一族で切符を買って、花束も出して上げねばならない。出費も大変だが、訳の判らない外国の歌っこばかりで閉口してしまうとこぼしておりました。本音と立前の内の本音がちらっと出てしまったのでしょう。

    最近は同級生の鬼門に入る者も増えて来ました。又癌等で闘病生活に入っている者もおります。自分も何時かは仲間入りするかもしれませんが、出来れば最小限の迷惑で済ませたいと願っております。
    同級生のクラス会は今でも何年に1回かは続いております。

    新しく開設したホームページは楽しく読ませて戴きました。今後宜しく御願い致します。
                                          福井 様     久慈 拝    

    返信
  2. 菅原哲夫

    初めまして。
    金属工業科1期生(昭和40年度卒業生)の菅原と申します。
    本日H27.02.10ホームページ開設された旨の
    葉書を福井様からいただきました。
    これから時々ホームページを拝見させて
    戴きます。

    返信
  3. 柴田覚

    久慈様
    早速のコメントありがとうございました。私、同窓会東京支部長をしております土木18回生(昭和41年度卒)の柴田覚と申します。大学の後輩で久慈孝次朗君(八高から専大アイスホッケー部)がおりますが、もしかしたら久慈様のご親戚ではないでしょうか?また、ご苗字から推察すると、今読書中の直木賞作家安部龍太郎著「冬を待つ城」の中に登場する九戸政実の末弟久慈四郎政則の末裔の方でしょうか?・・・東京支部では、同窓生皆さんの親睦・交流を促すため、色々と行事を計画しております。是非同期の皆さんをお誘い願います。お待ち致しております。

    返信
  4. 柴田覚

    菅原様
    コメントありがとうございました。私、同窓会東京支部長をしております土木18回生(昭和41年度卒)の柴田覚と申します。同窓会東京支部では年間色々なイベントを企画しております。是非、同期の皆さんをお誘い頂きご参加願います。また、HPをご活用頂き同窓の交流を深めて頂ければ幸いです。

    返信
  5. 久慈祥介

    柴田 覚 様
    2月に求められる儘にメールを書きましたが、ウエブに載っている事はつい最近迄知りませんでした。
    柴田様から問い合わせの様な文章を拝見しましたので殆ど答えにならないのですが返信します。
    久慈孝次朗さんは名前は覚えております。本家の次男だったと思います。
    何十年も前になりますが、孝次朗さんの結婚式が東京で開催され招かれて参列した事があります。
    その時に多分学歴紹介や仕事先の紹介もされていた筈ですが、今は全く記憶に留めておりません。
    年賀状のやりとりも結婚式後の数年間は続きましたが自然解消の状態になってしまいました。現在の住まいは
    千葉県内だったと思います。
    又、柴田様から久慈家の先祖・末裔の話が出ておりましたが、親父からは詳しい話を聞いた記憶が無く全く
    判りません。
    親父は八戸出身ですが、自分は樺太(現在のサハリン)の眞岡(現在のホルムスク)で産まれました。
    1941年(昭和16年)1月です。真珠湾攻撃が有ったのは同年12月8日です。
    自分の記憶にはっきり残っているのは膨大な数の提灯行列です。開戦当時は破竹の勢いで日本軍が戦勝して
    いた時期ですから、多分その時の提灯行列は真珠湾攻撃かシンガポール陥落の時の頃だろうと思います。
    年齢からして1才未満でしたが当時の強烈な印象が脳裏に今も残っているものと思います。
    樺太の眞岡以外は知りませんが、空襲も無く秩序も安定し、物資も出廻っておりましたし平穏でした。
    1941年8月14日に日本は連合国に対してポツダム宣言を受け入れ無条件降伏する旨申し入れて、翌15日
    に天皇陛下の玉音放送が流れ、同日正午12時をもって完全に戦争が終了しました。
    一方、ソ連は日本との間に「日ソ不可侵条約」が締結されておりましたが、連合国との戦争終結直後に
    一方的に条約を破棄し宣戦布告を通告して満州に攻め入りました。
    樺太には8月20日に眞岡の港にソ連の艦隊が進入して来ました。当日の朝は記憶にありますが霧が掛かって
    いた様な記憶があります。眞岡の街は南北に延びる国道に沿って海側の住居と山側を抱える住居が有りました。
    山の中腹には日本軍の陣地が点在しておりました。自分の家は国道を挟んだ山側に有りました。
    突然山側の日本軍陣地からと思われる、ズシーンと云う衝撃音が伝わって来ました。
    何事か?と思う間もなく、ソ連の艦隊から凄まじい艦砲射撃が始まりました。その内に国道の南側から大勢の
    人が逃げて来る様になりました。逃げて行く先には山の斜面を大きく刳り抜いた超巨大な防空壕が2基有りました。荷物を持たなければ全町民が退避出来る様な規模です。自分の家族も何時しか避難民に混じって防空壕に
    向かっておりました。頭上には通りすぎる銃弾の音、ヒュル・ヒュル・ヒュル・・・・の不気味な空気を切り裂く
    音が今でもはっきり覚えております。
    防空壕に辿り着いて間もなく、追いついたソ連兵の指示で又、街に戻る事になり、長い隊列を組まされて戻り
    始めました。ソ連兵の武器は円盤状の弾倉を付けた機関銃やバナナ状の弾倉を付けた自動小銃等で武装してお
    りました。途中で白旗を掲げた日本軍の一団が現れました。大分後から戦記等で知ったのですが、内地(本州)
    の軍令部は当時絶対反撃するな。の命令を出していた様で、その時の白旗を掲げて出て来た日本兵は決して
    降伏の為に出て来たのではなく、交渉の為に山から出て来たのだと思います。
    その時のソ連兵の対応は、極近くに居たソ連兵はいきなり機関銃を撃ち始め、何人かの日本兵はその場で倒れる
    者や白旗を投げ捨てて一目散に逃げ帰る者を目撃しました。
    子供乍らに卑怯な奴等だ、と怒りを覚えました。
    連合国とは9月2日に戦艦ミズーリ上で降伏の調印式が行われ正式に終戦となりましたが、「終戦記念日」は天皇
    陛下の玉音放送が有った8月15日となっております。
    ソ連軍は樺太を占領し、その後も北方4島の占領を続けておりました。9月2日の降伏調印後も北方4島の一部の
    島は未だ占領されていませんでしたがその後に占領されました。
    ソ連のスターリンは北海道の北半分も占領しようとしておりましたが、アメリカの強力な横槍で断念した。と云う
    話を何かの情報で後から知りました。若し北海道の半分をソ連に占領されていたら、今の北朝鮮と韓国の関係に
    なっていて、動乱が勃発していたかも知れませんね。
    親父は民間人でしたが我々より1年遅れで帰国しました。抑留されて作業に従事させられていた様です。
    北方四島の返還を叫んで長い年月を経過しましたが、ゴルバチョフのペレストロイカ政策が打ち出されて日本と
    ソ連が雪解けムードになり、一時的に北方四島が返還されるかも知れない、との甘い見通しが立った時期があり
    ました。此の時、一番活発に行動したのが不動産屋です。元の島民に接触して権利の仮契約を取っておこうと云う
    のです。元の島民は、その頃は高齢化して帰りたくても体力的にも不可能に近くなって居るし、息子は孫は、そんな辺鄙な島に行って暮らそうと思うような輩は殆どおらずに皆、権利の売却に積極的でした。立前と本音が、かいま見えた期間でも有りました。不動産屋は北方の島にリゾート施設を計画して居た様です。
    ペレストロイカは結局失敗しゴルバチョフは退陣し代わってエリツインが台頭して結局は御破算になりました。
    此の頃からソ連邦が解体されロシアになりました。
    幼少期の体験から、ソ連(ロシア)はズル賢い国なので信用出来ない。と云うイメージを持ってしまいました。
    此は悪しき先入観念ですが直すには相当な努力が必要です。

    又、何時のまにか関係の無いウンチクを長々と述べてしまいました。申し訳ありません。

    返信
  6. 久慈祥介

    柴田 覚 様  年代を誤記しましたので変更します。終戦は1945年です。
    2月に求められる儘にメールを書きましたが、ウエブに載っている事はつい最近迄知りませんでした。
    柴田様から問い合わせの様な文章を拝見しましたので殆ど答えにならないのですが返信します。
    久慈孝次朗さんは名前は覚えております。本家の次男だったと思います。
    何十年も前になりますが、孝次朗さんの結婚式が東京で開催され招かれて参列した事があります。
    その時に多分学歴紹介や仕事先の紹介もされていた筈ですが、今は全く記憶に留めておりません。
    年賀状のやりとりも結婚式後の数年間は続きましたが自然解消の状態になってしまいました。現在の住まいは
    千葉県内だったと思います。
    又、柴田様から久慈家の先祖・末裔の話が出ておりましたが、親父からは詳しい話を聞いた記憶が無く全く
    判りません。
    親父は八戸出身ですが、自分は樺太(現在のサハリン)の眞岡(現在のホルムスク)で産まれました。
    1941年(昭和16年)1月です。真珠湾攻撃が有ったのは同年12月8日です。
    自分の記憶にはっきり残っているのは膨大な数の提灯行列です。開戦当時は破竹の勢いで日本軍が戦勝して
    いた時期ですから、多分その時の提灯行列は真珠湾攻撃かシンガポール陥落の時の頃だろうと思います。
    年齢からして1才未満でしたが当時の強烈な印象が脳裏に今も残っているものと思います。
    樺太の眞岡以外は知りませんが、空襲も無く秩序も安定し、物資も出廻っておりましたし平穏でした。
    1945年8月14日に日本は連合国に対してポツダム宣言を受け入れ無条件降伏する旨申し入れて、翌15日
    に天皇陛下の玉音放送が流れ、同日正午12時をもって完全に戦争が終了しました。
    一方、ソ連は日本との間に「日ソ不可侵条約」が締結されておりましたが、連合国との戦争終結直後に
    一方的に条約を破棄し宣戦布告を通告して満州に攻め入りました。
    樺太には8月20日に眞岡の港にソ連の艦隊が進入して来ました。当日の朝は記憶にありますが霧が掛かって
    いた様な記憶があります。眞岡の街は南北に延びる国道に沿って海側の住居と山側を抱える住居が有りました。
    山の中腹には日本軍の陣地が点在しておりました。自分の家は国道を挟んだ山側に有りました。
    突然山側の日本軍陣地からと思われる、ズシーンと云う衝撃音が伝わって来ました。
    何事か?と思う間もなく、ソ連の艦隊から凄まじい艦砲射撃が始まりました。その内に国道の南側から大勢の
    人が逃げて来る様になりました。逃げて行く先には山の斜面を大きく刳り抜いた超巨大な防空壕が2基有りました。荷物を持たなければ全町民が退避出来る様な規模です。自分の家族も何時しか避難民に混じって防空壕に
    向かっておりました。頭上には通りすぎる銃弾の音、ヒュル・ヒュル・ヒュル・・・・の不気味な空気を切り裂く
    音が今でもはっきり覚えております。
    防空壕に辿り着いて間もなく、追いついたソ連兵の指示で又、街に戻る事になり、長い隊列を組まされて戻り
    始めました。ソ連兵の武器は円盤状の弾倉を付けた機関銃やバナナ状の弾倉を付けた自動小銃等で武装してお
    りました。途中で白旗を掲げた日本軍の一団が現れました。大分後から戦記等で知ったのですが、内地(本州)
    の軍令部は当時絶対反撃するな。の命令を出していた様で、その時の白旗を掲げて出て来た日本兵は決して
    降伏の為に出て来たのではなく、交渉の為に山から出て来たのだと思います。
    その時のソ連兵の対応は、極近くに居たソ連兵はいきなり機関銃を撃ち始め、何人かの日本兵はその場で倒れる
    者や白旗を投げ捨てて一目散に逃げ帰る者を目撃しました。
    子供乍らに卑怯な奴等だ、と怒りを覚えました。
    連合国とは9月2日に戦艦ミズーリ上で降伏の調印式が行われ正式に終戦となりましたが、「終戦記念日」は天皇
    陛下の玉音放送が有った8月15日となっております。
    ソ連軍は樺太を占領し、その後も北方4島の占領を続けておりました。9月2日の降伏調印後も北方4島の一部の
    島は未だ占領されていませんでしたがその後に占領されました。
    ソ連のスターリンは北海道の北半分も占領しようとしておりましたが、アメリカの強力な横槍で断念した。と云う
    話を何かの情報で後から知りました。若し北海道の半分をソ連に占領されていたら、今の北朝鮮と韓国の関係に
    なっていて、動乱が勃発していたかも知れませんね。
    親父は民間人でしたが我々より1年遅れで帰国しました。抑留されて作業に従事させられていた様です。
    北方四島の返還を叫んで長い年月を経過しましたが、ゴルバチョフのペレストロイカ政策が打ち出されて日本と
    ソ連が雪解けムードになり、一時的に北方四島が返還されるかも知れない、との甘い見通しが立った時期があり
    ました。此の時、一番活発に行動したのが不動産屋です。元の島民に接触して権利の仮契約を取っておこうと云う
    のです。元の島民は、その頃は高齢化して帰りたくても体力的にも不可能に近くなって居るし、息子は孫は、そんな辺鄙な島に行って暮らそうと思うような輩は殆どおらずに皆、権利の売却に積極的でした。立前と本音が、かいま見えた期間でも有りました。不動産屋は北方の島にリゾート施設を計画して居た様です。
    ペレストロイカは結局失敗しゴルバチョフは退陣し代わってエリツインが台頭して結局は御破算になりました。
    此の頃からソ連邦が解体されロシアになりました。
    幼少期の体験から、ソ連(ロシア)はズル賢い国なので信用出来ない。と云うイメージを持ってしまいました。
    此は悪しき先入観念ですが直すには相当な努力が必要です。

    又、何時のまにか関係の無いウンチクを長々と述べてしまいました。申し訳ありません。

    返信
  7. 柴田 覚

    戦争体験をされた久慈様と違い、私ら戦後生れが戦争の悲惨さを知らされたのは書籍や親達の口伝からでした。私の父は海軍の職業軍人で終戦を父島で迎えたました。多くの戦友を失った父は戦争の話を家族の前で余り話したがりませんでした。ただ、戦争は絶対すべきではないと言う強い意思だけはありました。戦後まもなく自衛隊の前身である警察予備隊が組織された時、色々な方々から当時としては破格な条件で入隊のお誘いを受けたようですが、頑なにお断りをしたと聞いています。永久に戦争放棄した日本憲法の解釈を現政権は法律で骨抜きにしようと企んでいます。戦争に良い戦争などありません。戦争の悲惨さを知らない戦後生まれのリーダーが自己のメンツのために国の行く末を危うい方向に導こうとしています。久慈様のような戦争体験をされた方々に、あらゆる機会を通して戦争の悲惨さを訴えていただれば幸いです。今月28日に行われます東京支部総会には、是非顔をお見せください。楽しみにしております。

    返信
  8. 久慈祥介

    柴田 覚 様
    長々とした文章を2通も送ってしまい、大変申し訳ありませんでした。
    「コメント欄」は範囲が狭いので誤字・誤記に気付かずに文章を送ってしまいがちに
    なります。又、コメント欄で文章を切ったり貼ったりし乍ら、コメント欄内では一応
    纏まった文章に見えるので此を送信しますと「送信欄」の文章構成は、つぎはぎだらけ
    の文章になり、加えて誤字・誤記の訂正も出来ません。文章の整理・整列も出来ません。
    仕方がないので全文をパソコンにコピーして「送信欄」の全文を一旦削除してから
    再び「コメント欄」に戻って先程コピーした全文を貼り付けて誤字・誤記を修正し、再び
    コメントを送信しましたら、前の旧い文章も残っているし、つぎはぎ状態の文章もその儘
    です。何か、操作方法が悪かったのしれません。一応其の様な訳で文章がダブってしまい
    ました。読み辛い事と併せて申し訳ありませんでした。

    返信
  9. 柴田 覚

    久慈様
    HPを開設して、まだ間もないことから不具合もあると思います。どうぞどしどし投稿をお願い致します。

    返信
  10. 畑中義信(22期土木卒)

    東京支部の皆様、6月の支部総会では大変お世話になりました。7月16日(木)は母校の大運動会が開催され、古代競技・東海道五十三次等々伝統的な種目も健在で大変な盛り上がりを見せており、今年度は材料技術科が常連の土木科・機械科を押しのけて、みごと初優勝飾りました。7月25日(土)は岩手県洋野町支部総会が開催され、懇親会の料理に特徴のある支部で三陸の海野幸がふんだんに取りそろえてあり、アットホ-ム的な感じで行われておりました。青森支部は今年40周年を迎え、10月に記念式典を行う予定と聞いております。八戸市もようやく梅雨明け宣言が昨日有り、明日から始まる三社大祭の太鼓の音がよる遅くまで鳴り響いております。

    返信
  11. 木村 義信

    今年度から幹事になりました、木村義信です。
    役員名簿(平成26年・27年度)の卒業期、科名ですが、
    18期・機械となっていますが、正解は、22期・土木です
    よろしくお願いします。

    返信
  12. 柴田覚

    畑中同窓会長、先日の東京支部支部総会ではご繁忙のなかご出席を頂きありがとうございました。
    色々と不行き届きの点があり、大変失礼いたしました。
    再来年は東京支部が創設されて60周年を迎えます。近々実行委員会を設け、スタートを切りたいと考えております。その節はご協力の程、宜しくお願い致します。

    返信
  13. 柴田覚

    6月26日に上野公園西郷隆盛銅像脇、グリーンパーク「旦妃楼」で行われた第59回八戸工業高等学校同窓会東京支部総会には本部から畑中同窓会長・古戸後援会理事長・一戸新校長を初め、母校の多くの先生方にお越し頂きました。また、佐藤東京青森県人会長・古町八戸市東京事務所主幹その他各友好団体の来賓、東京支部会員にもご参会頂き、盛会に催すことができました。心から感謝申し上げます。また、蕪島神社焼失に伴う再建募金には多くの浄財をご寄付頂き誠にありがとうございました。全額、デーリー東北社を通して寄進させて頂きます。来年は支部創立60周年を迎えます。総会を同期会の集まりとして、ご活用いただければ幸いです。HPに本年度の色々な行事を掲載してますので、同窓皆様には是非ご参加願います。

    返信

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